大人の韓国留学 50を過ぎた私の留学の旅思い出日記

50代で1年間韓国の大学の語学堂に語学留学しました。帰国してしばらく経ちますがあの時の気持ちを残しておきたくて書いている思い出日記です。

授業の思い出 ー討論 その3ー

討論授業を通してわかったことは、とにかくこれは語学学習の総合格闘技だな、ということです。

まず本番では上級単語や表現、5級から嫌というほど習う故事成語や慣用句を駆使し、いかにその場にふさわしい格式(丁寧さ)で話せるかが問われます。十分な準備とそれを本番で出し切る冷静さや度胸も必要でした。

格式と言えば思い出すクラスメイトがいます。語学堂は外国人のための韓国語学習機関なのですが、中には外国で育った韓国人もいて、私が出会ったのは高校まで英語圏で暮らして韓国で大学進学の準備をしている女の子でした。家庭では韓国語を使っていたらしく私のような外国人には普通の母語使いに見えましたが討論を始めてみると……口語しか使えない様子。外国語として韓国語を学んだ私たちがむしろ得意とする丁寧で活用の単純なスムニダ体が使えず、場面によって使い分けるという意識さえ持ち合わせていないようでした。毎週おびえながら決死の覚悟で準備し、会話でなく討論をしようとしている私のような学生を前に、そのことに気づきもしないのかいつまでたってもタメ口なのはむしろ衝撃でした。もうちょっと意識して学べば立派なバイリンガルなのに、なんて勿体ない。誰かちゃんと教えてあげないとダメなんじゃないかとおばさんは気を揉んだものですが、卒業式を前に学校に来なくなってしまいました。

さてもうひとつ、下調べも重要でした。私の場合、まずそのテーマにどんな議論があるのか広く浅く日本語で調べて全体像をつかんでから、韓国の新聞や調査、論文などに目を通すようにしていました。これはいくらやっても終わりのない作業ですが、やればやるほど本番の余裕につながったように感じました。このような準備の過程が今後の韓国語学習や翻訳に必要な調べもの力の土台になるのだと思って時間を惜しまずやりました。十分調べてインプットしておく情報収集力、整理力、記憶力。私が持ち合わせていないモノたちが求められました。

最後に、賛成反対の意見を言うとき、調べたり頭で考えたりしたことだけでなく実際の体験談やそれに伴う感情も説得力の一助になったと思います。その点で結構長く生きてきた私は10代、20代の学生さんたちよりも有利だったのではないでしょうか。みんなには歴史の1コマでも私はニュースで見ていた出来事もありますし、子育てや仕事の経験から異なる視点が持てたというのもあります。感情論だけでは討論にはならないのですが最後の一押しに使えることが多かったように思います。

こんな風に持っているものすべてを出して闘うのが討論の授業でした。やっているうちに武器が増え、いくつかの戦法をモノにして徐々に楽しくなっていったのは幸いでした。

ただ話すとか聞くのではなく、あの手この手で相手を納得させる高度なコミュニケーション活動ですから本当に韓国語の力がつくと思います。大学や大学院に進学して「韓国語を」でなく「韓国語で」学び続ける人たちにも必要な力なのでしょう。これができれば夫婦喧嘩だって冷静に闘えそうです。

この年でもう怖いモノなんて世の中にないと思っていた私をヒヤヒヤドキドキさせてくれた貴重な授業でした。 

  

 

 

授業の思い出 ー討論 その2ー

討論の授業で怖かったのは司会役を務めることでした。これは本当に無理。

司会は一方の立場の意見を聞いて受け止め、反対意見を求めては議論をまとめていくのが役目です。日本語でならできるでしょう。特に仕事なら内容は業務に関することですし、問題点や発話者の立場もおおよそわかっていますから様々な意見が出てもまとめるのはそんなに難しいことではありません。

ただ語学堂ではお互い外国語を話す身でテーマは社会的なイシュー。発話者の韓国語がうまく聞き取れない、これが本当に恐怖でした。

討論の授業では教室の机を動かして、普段は先生が立つ教卓側に司会者、そして討論者は縦2列にそれぞれ2、3人ずつ賛成、反対が向かい合って座ります。裁判ドラマのように。

討論者なら相手の発言がうまく聞き取れなくても、自分が言いたいことを言いきって逃げるという戦法が使えました。議論の流れを多少無視することになるかもしれないけれど、とにかく「わたしは異なる考えです」と切り出しておいて、自分の準備したネタを知っている韓国語でまくしたて、「以上の理由で私は死刑制度に反対します」などと締めてしまえば、少なくとも議論に参加する意志は示せます。前の人の発言をうまく受けて議論をつなげるような理想的な反論にはならないけれど、最低限議論に参加する責任は果たせるというか。

しかし司会役はそうはいきません。まとめないといけないのです。聞き取れなければまとめようもありません。議論がかみ合っているのか判断もできない恐ろしさ。こわいこわい。

聞き取れない理由は2つわかっています。1つは知らない単語がある。もう一つは発音自体聞き取れない。これです。

1つ目はひたすら私の勉強不足。その日に使われそうな単語は予習しておくのですが……言葉って無限にあるんですね。

いっそのこと全員が知らないような専門用語なら司会者として堂々と「〇〇さん、先ほどの△△△についてもうすこし具体的に説明をお願いします」のようにふる技も覚えたのですが、たいていはそんなことではありません。私が知らないのです。

漢字語なら頭の中でぐるぐる考えれば想像がつくこともあるのですが、そうではない動詞とか形容詞が本当に苦手です。こわいこわい。

ただ討論者だって先生も含めたオーディエンスがいる中での討論に多少は緊張していますし、メモを見ないで話すのが基本でしたから、みんな大抵は難しい単語や文法なんて使わずに話してくれるのは救いでした。敢えて少し難しい言葉を使うときは、それを簡単な言葉で言い換える準備までしている人を私は心の中で「天使」と呼んでいました。がんばって準備したよというアピールをしつつ、でもみんなが議論についてこられるようにちゃんと説明するという八方美人な態度が大好きでした。

2つ目は母語の干渉だと思うのですが、発音にかなり癖のある人がいつもクラスに2人はいました。人様のことを言える韓国語レベルではないのでこれは非難でも批判でもありません。私の韓国語だって誰かにとっては同じ困難を与えていたかもしれませんから。でもとにかくわからない。ごめんなさい。私が聞き取れないのです。

もうこればかりはどうしようもありませんので、同じグループにならないよう毎回心の中でお祈りしていました。

                                  つづく

#大人の韓国留学  #語学堂

授業の思い出 ー討論 その1ー

語学堂の5級と6級には、日本で韓国語を勉強していた時には一度も経験のない授業がありました。それは討論です。

日本語でも普段は避けているような社会的な難しい問題を韓国語でディベートするのです。毎週金曜日は討論の授業で、その日までに準備した内容を持ち寄ってグループで準備し、金曜日の最後の2時間に先生やみんなの前で発表するようなイメージです。

私がいたクラスは12、3人でしたので2グループに分かれて各グループに司会者1名、賛成と反対が各2、3名という構成になります。司会者は皆が均等に一回ずつは担当するようにし、討論試験の時は議論を上手くさばける学生を先生が推薦していました。賛成側につくか反対側につくかは希望制でしたが、人数のバランスが悪いと譲り合うこともよくありました。

テーマは死刑制度や早期教育年功序列動物実験の是非といったTOPIKⅡの쓰기54番(長文作文問題)に出てきそうなものばかり。意見を聞かれれば「条件付きで……」と答えるしかないようなテーマのオンパレードです。本来ディベートとはそういう物なのでしょうが、とにかく授業では私自身の意見を聞かれているわけではなく、韓国語で討論すること自体が目的なのはわかっていたので、賛否の人数バランスが悪ければ真っ先に席を移っていました。もうどっちでもいい、どっちにしても難しいよと毎回思っていたものです。

6級のときには討論授業のあとにそのテーマについて600~700字の作文を書くのが毎週末の課題でしたから、この授業をちゃんとこなしていれば54番も全く怖くなかったと思います。日本で長年対策問題集にかじりついて試験勉強していた自分を慰めたい気分です。

この授業の肝は下調べです。賛成と反対の両方の立場に一般的にはどのような意見があるのかを知っておく必要があります。世界的な社会の雰囲気や各国の事情、それらを醸成する契機となった事件やできごと、信頼のおけるデータを準備しておくことも大切でした。討論の内容に加えて、授業で習った新しい表現や四字熟語など適材適所で使えれば、なおポイントが高いこともよーくわかっていました。できるかどうかは全く別の問題でしたが。

そしてもちろん準備した材料を元に自分できちんと考えておくことも。私は歳だけは食っていますが筋道を立てて物ごとを考えたり話したりすることが苦手という致命的な欠点があり、情熱と根性だけで生き抜いてきたところがあります。ですから討論は世界で一番苦手なコト。日本語で考えても頭がごちゃごちゃすることを、皆が見ている前で韓国語で理路整然と話さなければならないのです。日本語も韓国語も含めた頭の中身を全部見られているような恥ずかしさでしたが、まぁそんな恥ずかしさも捨てられるくらい歳を取っていたことも幸いしたかもしれません。毎回全力でぶつかっていました。こんな貴重な経験はなかなかできませんから。

                                ーつづくー

#韓国語学堂  #大人の韓国留学

 

 

留学生活のおとも ー物干しロープー

狭いコシウォンの部屋でどうやって洗濯物を乾かすのか? 

乾燥機があるかもしれないし、もしかして屋上で干せるのかも。あ、ドラマみたいに屋上に縁台あったりして! そんな想像を膨らませながらも結局あまり確信のないまま渡韓することになりました。

ただ、少なくともハンガーはいくつか必要だろうと思ってスーツケースに入れてみたのですが、あの三角とフックの部分が邪魔になって他の荷物が全く入らなくなってしまいます。かといって省スペースの針金ハンガーは肩に跡がつくので好きではありません。そういうわけで、いくら家にたくさんあるとはいえ、持って行くのは諦めて現地調達することにしました。

その代わりに持参したのが、物干しロープです。ナイロン製で巾があり、両端に金属のS字フックがついていて、4、5mで1,000円程度のものをamazonで調達しました。自宅では使ったことのない代物でしたが、大好きな絵本『せんたくかあちゃん』を思い出し、ロープさえあればなんとかなるのではないかと考えたのです。軽くて場所も取らないので荷物に潜り込ませました。

行ってみるとコシウォンには1フロア20数部屋にドラム式の洗濯機が1台。乾燥機も屋上も無かったけれど、粉洗剤が無料で使えるようになっていました。では、どこに干せというのでしょうか? 洗濯室に室内用の簡易物干し台がいくつか置いてあり、各自それを自分の部屋に持って行って干すということらしく、ハンガーも幸い誰かが置いて行ったものを自由に使えるようになっていました。

しかし部屋はとても狭いため廊下に出している人もいて、はっきりいって通行の邪魔なのですが、そこは互いに事情を知る身。引っかけて倒さないようカニさん歩きをするようにしていました。

それからもう一つ、廊下の突き当りに突っ張り棒が上下に2本固定してあり、運よく空いていればそこにも干すこともできました。跳ね上げ式窓の10㎝ほどの隙間から風が少し入る程度なのですが、日もあたる特等席なのでした。

 

残念なことに私が住んでいたのは男女共用のフロアでしたので、特等席を尻目におばさんは自ら慎む=自粛して常に部屋の中に干すことにしたのです。

そこで役に立ったのが物干しロープです。室内を見回してみると、何の目的か、ねじ釘がコンクリートの壁にいくつか打ち込まれていました。そこにロープをVの字に引っかけてみると、2、3日分の洗濯物はもちろん、掛け布団やベッド用のシーツまで広げて干すことができるせんたくかあちゃん大満足の景色ができあがったのです。

ちなみに洗うにも乾かすにもかさばって時間のかかるバスタオルは持参せず、普通サイズのタオル数枚で代用していました。しかし韓国では狭い部屋に洗濯物を干していても全く湿っぽくならず、それがいつも不思議で、あれならバスタオルもいけたかもと今なら思います。空気が乾いているからなのでしょうか。

この季節、乾ききらないバスタオルの端っこを指先で触るたび、コシウォンの物干し光景を思い出して懐かしんでいます。

 

#留学生活のおとも  #大人の韓国留学

ソウルで見たもの ー格差ー

語学堂の新学期が始まる一週間ほど前にソウルに到着して、毎日散歩と町探検を楽しんでいました。これから一年暮らす新しい街にワクワクしながら。

 

学生街から少し歩くと、ニョキニョキニョキニョキ・・・・・・至近距離に一体何棟建っているのかと思うほどのマンション群の足元に、趣のある路地が残っていることにまず驚きました。はずれとはいえ、ソウル市内。観光や短期のホームステイで行った時には見たことのない光景でした。大都市の中に一筋だけ、生えはじめの白髪のように釜山の甘川(カムチョン)村の路地が通っている、そんな風に見えました。

人様が静かに暮らしているところに土足で踏み入るような申し訳なさもありつつ、それでも好奇心を押さえきれず、お邪魔しまーすと心の中で呟きながらその路地に吸い込まれて行きました。

ドラマで見るようなレンガやセメントの平屋の建物、沖縄を思わせる風情のある屋根瓦、緑や水色の鉄製の門、家の前に置かれたごみ回収用のバケツ、ブロック塀の上を優雅に歩くネコ。生活感のある雰囲気にここが一気に気に入ったのでした。

韓国語の勉強は実は日本でいくらでもできます。でも普通の人の普通の生活は実際どうなっているのか、それを感じたいというのが留学の目的の一つだったからです。

そうは言っても甘川村のような観光地でもないし、写真を撮るのははばかられる中、思わず一枚だけ取った写真がこれでした。

住む人のいなくなった廃屋の向こうにそびえたつ立派な教会。その左側の小ぎれいなマンション、その向こうにさらに高層のマンション建設がガンガン進んでいました。視界に入る範囲にこの格差。ここまでとは言わなくても似たような景色はこの後もいくつか見ることになります。後になって知り合った地域住民の方に聞いてみたところ、「あ~あの辺も再開発を待っているのよね、結構長い間」と教えてくれました。

どんな歴史があって、ここがこの時このような景色になっていたのか、詳しいことは私にはわかりません。ただ、まばゆいばかりの大都市や観光地だけを見ていてはわからないことがあって、それを知ろうとすることで暮らしや社会の理解に少しは繋がるのではないかと感じたのでした。

 

#韓国の格差

留学生活のおとも ートイレットペーパーー

トイレットペーパーは一年間にいくつ必要なのか、想像もつきませんでした。

一人で暮らしたことがなかったですし、家族は男女混合なので単純に割り算もできません。韓国に到着した日からトイレだけはすぐに使うだろうと考えた心配性の私は、日本から2ロール持参しました。芯を抜いて潰し、スーツケースの隅に押し込んで。到着後の隔離が必要なくなった直後でしたが、到着した日にすぐに買い出ししないと暮らせないということがないように準備したのです。

その2ロールがなくなるまでの間に、大学の近所で市場調査を実施しました。これから始まる一年間の一人暮らし、楽しみだけど無駄遣いはぜひ避けたいもの。どこにどんなものが売っていて、どのくらいの単位から買えて、おおよそいくらぐらいなのか知りたかったのです。

大学周辺で、食料品スーパーから、eマート、コンビニやダイソーまで、ネイバー地図を見ながらあちこち見て回りました。ウォーキングも兼ねてかなり歩きました。でも、どこを見てもトイレットペーパーは私の中の基準価格よりかなりの高額で驚きました。

日本ではペーパーと名のつくものはドラッグストアで買っていましたが、それらしきところは近所に見当たりません。「薬」の看板は多いけれど、ちょっと入りにくいほど小さな、まさに薬屋さんで、ペーパーを買うところではなさそうです。オリーブヤングっていうのもちょっと違う感じですし。一体みんなどこで買っているのでしょうか?

学生街なので、いや学生でなくてもペーパーの需要は必ずあるはずなのに、これだけ探しても納得のいく、いや主婦として許せる価格帯のものが見当たらないということは、韓国ではこんな値段なんだという結論に至りました。仕方ありません。生活必需品ですから買いますよ。

ただ、それならせめて余らないように少量ずつ買いたいと考えるのが主婦の人情というもの。少量パックを探していると、一駅先のダイソーに1ロールずつ売っているのを見つけました。たしか500ウォン。買えない値段ではありません。そのくらいのお金、持っています。でもね、日本で12ロールいくらで買っていたのかを考えたら、ちょっとばかばかしくなります。しかも1か月の語学研修で来たというなら諦めますが、1年いるのです。もうちょっとまとめて買ってお得に済ませたいと思ったのです。どうせ流してしまうものなんですから。

そういうわけで持参した2ロールがなくなる頃、いったん10ロール入りをダイソーで買ってみたものの割高感に耐え切れず、次は30ロール入り9,900ウォンを一番近いLマートで買いました。大容量はお得だけれど、かなり重いということに気がついたからです。

そうしてこれを見事にちょうど使い切って帰国しました。途中で帰国したコシウォン仲間がいくつか置いていってくれたのも含んでいますが、無駄のない買い物に大満足です。

最後になりましたが私の住んでいたコシウォンはペーパーが流せないトイレだったこと、申し添えます。どうせ流してしまうもの、というのは間違いでした。言葉の勢いで。悪しからずご了承ください。

 

#大人の韓国留学 #留学生活の必需品

留学生活で出会った韓国語 ーご飯食べた?ー

韓国語に「ご飯食べた?」という挨拶があります。

皆がひもじかった時代に相手がお腹をすかせていないかを思って尋ねた名残だという説を聞いたことがありますが、その言葉はコシウォンでよくかけてもらいました。同じ建物内に住んでいる社長夫妻や、私と同年代のおじさん住人も、「ご飯食べたの?」「(いまから)食事ですか?」と。なんてやさしい響きの言葉なんだろうと思ったものです。

日本にいるときは家族の食事を常に心配するのが私の仕事みたいなものでしたが、外国でひとり暮らしてみると私がご飯を食べたかどうかなんて誰も心配してくれませんから。

今では単なる挨拶の言葉となっていて、本当に食事したかどうかを知りたいわけではないという話も聞いていましたが、加減がよくわからない私はよくまともに返事をしていました。それでなのかどうかわかりませんが社長夫妻にはあれこれ食べるものをいただいたものでした。

共用の台所にコーヒー用のお湯を汲みに行くと、「〇〇、あげようか?」といって、おすそ分けとはいいがたい量の食べ物を差し出してくれるのです。両手に持たされた食料を見つめながら『応答せよ1988』の冒頭のおかず合戦は本当だったな、と心の中でにんまりもしたものです。

故郷の江原道で親戚が作っているというジャガイモやトウモロコシをふかふかにふかしたもの、社長が漬けた白菜や小さい大根のキムチ、大きな白菜の葉を丸ごと衣につけてフライパンからはみ出しながら焼いたジョンに、栄養ドリンクまで。

    

もちろん私一人がいただいていたのではないと思いますが、2フロアで50室以上あるコシウォンの住人全員に配っていたらご自分たちの食べ物がなくなってしまうでしょうから、特別によくしていただいていたように感じていました。

社長さんは私より少しだけ年上のオンニでしたが、そこに住んでいる間私は学生気分でしたから、お母さんみたい、こういうのを情というのかなぁと。

チョコパイの「情」の字を見るたびオンニの顔が浮かびます。お陰で心もお腹もひもじくなることなく過ごしました。お世話になりました。