大人の韓国留学 50を過ぎた私の留学の旅思い出日記

50代で1年間韓国の大学の語学堂に語学留学しました。帰国してしばらく経ちますがあの時の気持ちを残しておきたくて書いている思い出日記です。

留学生活の思い出 ー漢江(ハンガン)ー

 漢江にそれほど魅力を感じたことはありませんでした。留学する前は。
 同じコシウォンに住んでいた娘のような年齢の語学堂仲間に

「漢江でラーメンを食べたいから一緒に行って」

と言われて、それ?と思いながらも出かけて行きました。まぁ保護者みたいな感じです。ところがラーメンはともかく、その雄大な景色の魅力にはまり、その後何度も出かけて行くことになったのでした。

 川は大好きです。川のあるところで育ちました。大きな川とお城のある大好きな景色の中に父も眠っています。でもコロナよりずっと前にソウルシティツアーバスの夜間コースで漢江に架かる橋をあちこちぐるぐる回ったときも、その魅力が全く分からなかったのです。イヤホンで日本語解説を聞きながらウトウトしてしまった記憶だけ。この土地に縁もゆかりもなかったせいでしょうか。

 漢江は川でなく“江”と書くくらいなので、かなり大きな流れと言えると思います。海とまでは言いません。向こう岸が見えますから。ただその雄大な水の流れの向こうに、場所によって多様な景色が広がっているのです。巨大なショッピングモールや遊園地が見えるところもあるし、高層マンション群がニョキニョキ見えるところもあります。北側からと南側から、どちら側から見るかによっても景色はかなり変わって見えます。行くたびに、向こうにはどんな暮らしがあるのかな? どんな楽しいことがあるのかな? 今度はあそこに行ってみようと思いめぐらせる楽しさは魅力の一つではないでしょうか。地元の川はいくら川幅が大きいところでも、それほど景色に違いはありません。どちらにしても田舎なのでひたすらのどかな風景が広がるのみです。

 

 川の両サイドには大きな公園がいくつもあり、週末にはイベントが行われるところもあります。私がソウルにいる頃にようやく再開された週末のトッケビナイトマーケットもその一つ。汝矣島(ヨイド)漢江公園や、橋から噴き出す噴水で有名な盤浦(パンポ)漢江公園。見渡す限りテントが並び、食べ物やアクセサリーなどの夜店にこれでもかというくらい人が並んでいました。その横を敷物を脇に挟んでクーラーボックスをゴロゴロ、あるいはコンビニの袋を両手にぶら下げて、若い人たちのグループやカップルが楽しそうに川の風を浴びながら歩いています。敷物やひざ掛け毛布のレンタルというのもありました。真夏でも夜の川辺ですからね、これはいい商売。それから噴水の前のフォトスポットではお行儀よく列にならんだ人たちが順に写真を撮り合っていました。ほんと、若いって楽しそう。

  

 ソウルの人たちはこうやって大都会の夜景を見ながら大自然の川風を浴びてビールを飲む楽しみがあるんだなぁとうらやましく思ったのでした。夜景もビールも特に好みではない私でも、舞台が川というところにとてつもない魅力を感じたのでした。バスの中からは到底わからない魅力だったのです。

 肝心のラーメンですが…食べましたよ。川辺に不愛想なアルバイト生とラーメン調理器!?のある小さなコンビニがあって、2人で見様見真似で作っていたら、傍にいた韓国人が親切に色々教えてくれて無事に作ることができました。困ってる人を放っておかない国民性です。その節はほんとにありがとうございました。

    

漢江でラーメン、この取り合わせが気に入った彼女とその後また同じルートで行くことになり、今でも連絡すると漢江でラーメン食べたいと言って言っています。かわいい人です。         

 つづく

#漢江でラーメン  #漢江  #トッケビナイトマーケット

 

留学生活の思い出 ―語学堂からのメール編―  

春かと思ったら急に初夏を思わせる日差しになって、渡韓の前後に留学先の学校から受け取ったメールを必死で読んでいたのがちょうどこんな季節だったなと思い出しています。

一番はじめは渡韓の一週間ほど前。「10日後、オンラインでレベルチェックテスト[分班試験]をします」という内容でした。何級に入るのかという面談は一か月以上前にオンラインで終わっていて、できれば語学堂の通翻訳課程に入りたかったものの実力不足を判断された私は5級に入ることが決まっていたのでした。

その翌日には、入国日と韓国国内の電話番号またはカカオトークIDを知らせるようにというメール。エージェントを通じて既に韓国で使う携帯SIMが手元にあった私はその両方を書いて返信しました。ここまでの2通のメールは韓国語、英語、日本語の順で同じことが書かれていて結構親切なんだなと思いましたが、全レベルの学生への一斉メールのようでしたから、韓国語を初めて学習する学生の事を考えれば当然と言えば当然なのかもしれません。

さらに数日後、渡韓の前々日にクラス分けテストのZOOMのリンクと受験者の名簿が送られてきました。午前中に一人15分ずつ、9人のインタビューを順に行った後、午後には筆記試験がありますという内容。名簿の名前はすべてアルファベットでしたのではっきりとはわからないものの、中国語圏と思しき名前が多めだなという印象でした。そしてこの時のメールの本文や添付資料内の説明文は韓国語と英語のみで、前回の2通とは担当者の名前が違っていました。

ちなみにオンラインでの筆記試験というのは、先生が画面に問題を映してくれるので、それを見ながらノートか何かに答えだけを書き、最後にそれを写真に撮って先生にメールで送るという方式でした。一応筆記具もノートも手元に置いていて慌てずにすみましたが、渡韓直後なのかデジタル世代なのか、手元に「紙」というものがなくて慌てていた人がいたのも確かです。不正防止のために自分の手元を映しながら問題を解くので、特にスマホで受験していた人は画面も小さいし、手元は移さなければいけないしでちょっと大変そうでした。内容は文法や文章問題、作文もあったように思います。レベルチェックというくらいですからある程度の分量がないと判断できないのはわかりますが、思ったより分量が多くて驚きました。

その5日後、渡韓して3日ほど過ぎたころ留学生全員宛てにビザ申請に関する案内メールが来ました。外国人は入国後90日以内に必ず行わなければならないもので、日本で言う行政書士のような人が申請代行を行うこともできるという内容。ただ、もちろん代行は有料(5万ウォン)のうえ、その受付日は一か月以上も先。今こんなに暇なのに時間もお金も勿体ないと思った私は暇に任せて検索しまくり、オンラインでハイコリアに予約を入れたり、大学の事務所に在学証明書など必要な書類をもらいに行ったりしました。在学証明書は学期が始まらないと出せないと言われたものの早めに動いたおかげでハイコリアの予約は早めに取れたのでした。この時のメール本文は韓英中国語で、添付資料にはさらにベトナム語が加わっていたので、いかにベトナム出身者が増えているかを感じたのでした。

そうして開講を月曜日に控えた金曜日にようやくクラス分けテストの結果が送られてきました。韓中英に加えて日本語のメッセージもありましたが、ファイルには1級から6級まですべての学生の名前とクラスが書かれていてびっくり。級別の人数規模などが分かって個人的には興味深く見たものの個人情報としてどうなのかなと思ったのでした。さらに同じ日に来た保険に関する別のメールは韓国語のみという不思議。

こうして振り返ってみると、留学先の学校からのメールは差し出し部署(大学事務局が大学学部生、語学堂学生を含めた全留学生に向けている場合と語学堂の事務局からの場合あり)と担当者によって日本語があったり、なかったりしました。今は翻訳アプリがありますから少なくとも文書で送られて来れば何とでもなるものの、韓国語の初学者で英語も得意でなければ若干不安という事態は起こり続けるようです。まぁそれが留学の醍醐味でもあるのですが、語学と紙の準備は大事だなという教訓の思い出です。

 

#語学堂留学  #日本語サポート  

留学生活の思い出 ー韓国文学翻訳賞授賞式編ー

 先日、2024年韓国文学翻訳新人賞の公募案内が発表されました。現代文学部門の課題作品が収録された原書2冊の入手にようやく成功したところです。短編小説2作のうち1作を選んで応募できるのでまずは読んでみているのですが、読みながら2022年の授賞式のことを思い出しています。私、授賞式に参加、いや参列したことがあるのです。

 クリスマスも近い12月の初旬、平日の夜に江南のCOEX HALLでその式は行われました。コエックスと言えば天井まで高々とそびえるきらきら本棚で有名なピョルマダン図書館。その図書館のあるモールの隣には素敵なホールがあって、渡韓してすぐに出かけた国際図書展の会場もそこでした。

 授賞式で新人賞を受賞されたのは翻訳勉強会の尊敬する大先輩。授賞式の頃たまたま私がソウルに住んでいたので、付き添いで二人まで一緒に行けるからどうですか?とお誘いくださったのでした。大先輩と言うのは気持ちの問題で、年齢は私の方がかなり上をいっています。ただ画面の向こうでいつもニコニコしながらも、物語だなぁ~と思えるような日本語がするする出てくる、一体この人は何なんだろう、さりげないのに凄すぎると心から尊敬する翻訳の大先輩です。

 この勉強会にはその前年に古典部門で新人賞を受賞された先輩もいらっしゃって、全く訳がわからないほど凄いのですが、とにかくそんなところに籍を置かせていただいているだけで光栄ですなどと言っていないで、私も誰かを誘って授賞式に行けるよう精進せねばと思うばかりです。

 授賞式には翻訳大賞、功労賞、映画部門やウェブ漫画部門の新人賞など、受賞者の方々が世界各国から参加していました。年度や部門によっても違うようですが、この年の文学部門はフランス語、ロシア語、ベトナム語など9か国語。受賞者は渡航費、滞在費も翻訳院もちでご招待を受けるそうで、文化発信への国の力の入り具合が窺えます。招待されていないのに自主的に参列者に加わった私まで式後の食事やお土産の恩恵にあずかり、とても素敵な青磁の皿でしたので、これはすごく特別な物だからと言って母への土産にさせていただきました。ありがとうございます。

 ところでその時ソウルにいた私の語学留学の目的は韓国語のレベルアップと韓国社会を肌で感じてみたい、そして何より韓日翻訳を学びたいということでした。翻訳に特化するなら韓国文学翻訳院の翻訳アカデミーや翻訳大学院で学ぶ方法がありますが、残念ながら私の韓国語はまだまだまだまだそのレベルにありません。そこで、語学堂の先生曰く「大学院やアカデミーよりずっと軽い課程」である語学堂の通翻訳課程で学んで来たのです。

 帰国後も勉強を続けながら今一番思うことは、翻訳というのは原文を書いた人の意図を汲みとることがもっとも大切ということ。それを適切な日本語にするときに作法やテクニック、表現力ももちろんとても大事だけれど、汲み取れていなければその先をいくらあがいてみてもダメなようだということです。

 新人賞を受賞された先輩の作品を翻訳院のウェブ図書館で読んでみてそれがよくわかりました。この年の課題作は父娘のほんわかとした物語なのですが、そのほんわかした感じが最初から日本語で書かれたみたいにほんわかしていて、その先輩も本当にほんわかした方なのです。人間性がにじみ出ているというのはこういうことかとため息をつきながら心から納得したのでした。

 

今年の課題作は、「借金の話」と「娘を殺された男の犯罪の連鎖の話」。さて、どちらが私にぴったりなのか、どちらをより汲み取れそうか、今懸命に考えているところです。

 

#韓国文学翻訳新人賞 #赤い実  #韓国文学翻訳院

  

留学生活の思い出―文化体験2―

6級の時の文化体験授業は韓国料理。

場所は梨花女子大学の目の前のビルにあるキッチンスタジオでした。5級の時の国楽院に続き、通っていた語学堂からは少し距離がありましたが、クラスメイト達と出かけていくのは遠足のようで楽しかったのを思い出しています。

最寄りの駅から大学までの通りは、女子大学の周辺ということもあるのかファッションのお店や飲食店がひしめいて華やかだっただろう雰囲気を醸し出していました。過去形になっているのは、コロナ禍の影響で閉店したお店が多く、通りに面した巨大なガラスの壁から空っぽになったお店の中が寂し気に見えていたから。今はまた活気を取り戻しているのかもしれません。

がらんとした通りを見ながら、20代前半の日本人のクラスメイトが「むかし来たときと全然違う~全部つぶれちゃったんだ…」と言ったのは衝撃でした。“むかし”っていつ? そんな昔にこういうところに遊びに来てたの?? 聞いてみると、”中学生”のとき韓国旅行に来て、いとこのお姉さんやその知り合いの韓国の女の子と一緒にこの通りで買い物をした。洋服やスイーツのお店がいっぱいあって、すごく楽しかったのだそうです。へぇー、そういう時代なんだなぁ、旅行に来て出かけていくところもおばさんとは全然違うんだなぁと思ったのでした。これまでの私の旅行プランにこの女子大前の通りが入っていたことは一度もありませんから。

そんな話をしながらキッチンスタジオに到着し、お揃いのエプロンをつけて、2クラス25人ほどの学生たちと一緒にチャプチェとジョン(チヂミ)を習いました。講師は外国人向け体験料理教室には慣れた様子で、今日は対象が語学堂の生徒ということもあるのかわかりやすい韓国語に時々英単語も織り交ぜて作り方を説明してくれました。

 

今日ばかりは私にとって難しいことは何ひとつありません。主婦歴ん十年。内心、何か特別な隠し味とかコツが聞けるかもと期待していましたが、残念ながらそのようなものはなく、日本でレシピを見ながら見よう見まねで作っていたものと変わりありませんでした。むしろチャプチェの味付け用には醤油の量が多すぎじゃないかと思っていたら、案の定すごくしょっぱくて、他の子たちにも大不評。なんだ…私の“チャプチェもどき”の方が断然おいしいじゃないのと心の中で呟きながら、韓国料理体験はちょっと残念な感じで終わりました。

そういうわけで2回の体験学習で学んだことは、文化の体験そのものよりも、教室から出かけていって人と話したり、行ったことのない街を歩いたり、出かけるために電車の経路を調べたり…そういうのが本当の学びだということでした。語学堂の先生や教科書にしがみついていては学べないことがあるという当たり前のことを、学校に一生懸命通うあまり忘れかけていました。チャプチェのおいしい味付けなど検索すればいくらでも出てくる時代です。

この日の帰り、梨花女子大学と延世大学という大きな大学の重厚な建物を見学し、クラスの子たち10人ほどで昼食を食べながら普段教室ではあまり話をしたことのないいろいろな国の子たちとそれぞれの故郷や家族の話ができたことが、私にとって本当に新鮮な文化体験となったのでした。

    

 

#韓国文化体験 #語学堂留学生活の思い出

 

 

留学生活の思い出 家族との別れと新しい出会い編

留学のために渡韓した日のことを今日思い出しています。

あの日からもう1年半以上。

当時はもういい加減コロナも収束だよね~とおそらく多くの人が希望も含めて思っていたころで、現地到着後7日間の隔離期間がなくなった直後でした。

  

出発した日の空港です。お店も再開しつつあるけれど電気代節約ですか?というほどの薄暗さ。既に空いている向こう側のカウンターも手続きしている人はまばらで、よほど行かなければならない仕事でもない限りこの時期に空港には来ないよね、という空気はまだ漂っていました。旅行とか留学というのは本当に贅沢なこと、人生の+αなんだなぁと思ったのでした。

平日だったというのもありますがフードコートの席取りなど全く必要なく、窓側のいい席に座り放題。見送りに来てくれた夫はおいしそうにたこ焼きを頬張っていました。一年間会えませんが、まあ30年以上一緒にいるんだし大丈夫でしょうとお互い思っていたと思います。40代で初めて一週間の韓国超短期留学&ホームステイをした時の方が私も気合いが入っていたし感動的だったような…。あれから約10年。子育て後の私の留学計画がとうとう実現するという期待だけで私はお腹がいっぱいでした。

私のような年齢で一人留学に来たということを知ると、韓国では私より配偶者を褒める人が圧倒的に多かったものです。韓国ではそれは無理だよ、と。理由を聞くと、

妻が浮気するんじゃないかと思うわよ、だから韓国の男の人は許さないよとか、ご飯とか困るでしょ?等々。だからそれを許したあなたの夫は偉い!(むしろ信じられない)と年上の女性に面と向かって言われたこともあります。

当時は、何で? 頑張ってるのは私なんですけど? とずっと思っていましたが、帰国してからまた家族との暮らしが始まってみて分かったことがあります。留守番していた夫や息子も、自分の事を自分でするのは当たり前のことながら、変化した暮らしに対応してくれていたんだなぁと。

だから帰国してから息子が、お母さんはおかず色々作れてすごいな、いないときはいつも同じものばかり作って食べてた、お父さんもいつも作るの焼うどんばっかり…と言われたときはちょっとほっこりしました。これまで一度も参加したことのない町内の草刈りにもよく聞けば息子と夫が交代で出てくれたそうです。その後息子は会社でお弁当箱を洗ってくるようになり、朝ご飯はご飯とみそ汁しかなくても、ありがとう、いただきますとご丁寧に言ってくれたりするのでちょっと気持ち悪いくらいです。

そんな家族の協力に当時は気づきもしないまま、私は家事全般から解放されて韓国ライフを楽しんでいました。到着の翌日には東大門区の保健所でコロナの検査を受けるようにと言われていたので早速出かけて行ったものの表示がとてもわかりにくく、同じように迷っている日本人留学生2名と知り合う展開に。その内一人とは今でもオンラインで一緒に韓国語の勉強を続けています。大学の交換留学で来たというもう一人の子とは、検査後に一緒にマートの片隅でコーヒーを飲んで情報交換をしたりして・・・娘のような年齢の子と、コンセントの変換プラグはどこで買ったらいいのかとか、語学堂の授業はまだオンライン? なんていう話を時間も気にせずゆっくりできて早速楽しかったのを思い出しています。

あーそろそろまた行きたくなってきました。

 

#留学生活の思い出  #家族の愛

授業の思い出ー体験授業1国楽ー

語学堂の授業は10週間。授業や試験が全て終わると、一日だけお楽しみの体験授業という日がありました。

ただこれも5、6級までの話で、通翻訳課程にはなし。曜日によって先生が変わり日程調整が難しいからという話も聞きましたが、実際もう学校から体験なんてさせてもらわなくても自分たちで勝手に何でもできるよね?ということなのだと思います。

私が通ったときは、5級はチャング(太鼓)、6級は韓国料理でした。

体験メニューについてはある程度パタンはあるものの、同じ級でもその時々で内容は変わるようで、生徒からの要望も多少聞きながら、担任の先生たちが適宜話し合って決めているんだろうなという感じに見えました。

チャングの体験会場は国立国楽院。

    

本格的な公演場、博物館、野外劇場なども併設された広大な施設の一角でした。学校のある1号線からは2回ほど乗り換えて3号線南部ターミナル駅からさらにバスにのるという(学校からは)便利とはいいがたい立地です。

語学堂内では上級に位置付けられる5級クラスとはいえ、韓国生活もようやく3か月目。授業や毎日の生活に適応するのに精一杯の時期です。ソウル市内とはいえ、行ったことのない場所に決まった時間までに来なさいと先生に言われ、どうやって行く? 何時に出ればいい? と楽しそうな黄色い声が教室に飛び交ったのは楽しい思い出です。あの時は本当にクラスの子たちの声が黄色く見えた‥‥‥。そういえば、同じ焦っていても私の声はもう黄色というより黄土色ぐらいなのかも。小さなことでもキャッキャ言える年代の子たちと共に過ごせた時間はとても貴重だったなぁと、今思い返しています。

ところで当日の体験内容もさることながら、そのような素晴らしい施設について知ったことが黄土色の私にとっては大きな収穫でした。「土曜名品講演」という伝統芸能の公演が毎週のように開かれていることを知り、しかも外国人はたしか5000ウォン程と格安。上級の私は四苦八苦しながらもようやくインターネットでの座席予約に成功し、国楽の世界を堪能することができたのでした。

その日の演奏会は満席で、隣には紺色のハーフパンツに白い靴下の育ちのよさそうな小4ぐらいの男の子がお母さんと並んで座っていて、お母さんと一緒に静かに音楽を聴いていました。土曜の夜に国楽なんて、なんて文化的な暮らしなのかしら、やっぱりソウルの子は違うわねと感心したのでした。

私はと言えばホールの隣の博物館でチャン・ヨンシルのドラマで見た石板の打楽器のレプリカを見つけ、喜んで叩いてみたりして一人で興奮、大満足。あのドラマ、もう一回最初から見たいなぁ。

私は楽器に特別強い関心があるわけでも、音楽に造詣が深いわけでも全くないのですが、名品と謳っているだけあって演奏は「本物だ!」という感じがしました。違いが判る女では決してないけれど、演奏者や出演者の方たちからはオーラを感じたのです。きっと韓国国内トップレベルの方たちによる講演だったのだと思います。週ごとに楽器や踊りなど演目が変わるようで、ソウルにいる間にもっと見ておけばよかったとその点はちょっと後悔しています。  

 

つづく

 

#国楽の世界  #体験授業  #語学堂留学の思い出

 

 

留学生活で出会った人 ―コシウォン住人おじさん編―

留学生活の思い出の1/3はコシウォンでできました。

今日思い出しているのはコシウォンの住人のおじさん。とは言っても一人は恐らく40代で私よりずっとずっとずっと若く、もう一人は同年代かもう少し上とお見受けしました。でもまぁ、大学生に比べれば世間的にはもう大人という意味でおじさんと呼ぶことにします。

 このおじさんたちは、長年勉強を続けている司法浪人生のようでもあり、キロギアッパのようでもありました。キロギアッパというのは子どもを留学させるときに母親(つまり妻)が一緒について行ってしまい、自分は仕事のため国に残ってひたすら仕送りをするお父さんのことを言うそうです。ソウルで仕事をしながら自分の生活費を切り詰めてコシウォンで暮らす・・・私の中で勝手に物語が広がります。とにかく……そんな哀愁をおびたおじさんたち。

 コシウォンの入っているビルにはエレベーターが2台も並んでいてとても便利だったのですが、運動不足を恐れた私は7階までいつも階段を使っていました。雑居ビルでしたので整形外科のフロアでは清掃担当の人が外されたギブスを片付けていたり、複数入っていたコシウォンの各フロアではオーナーが紙と一般ごみ、リサイクルごみを分別していたり…分別しながら愚痴っているのを聞くのも面白く、生活感のある階段風景を楽しませてもらっていました。

 新学期が始まる前後はコシウォンの人の出入りと共にごみが増えて大変です。大学や駅から徒歩10分かからない立地でしたから、韓国人大学生はもちろん留学生と思しき外国人もたくさん住んでいました。自国とごみ出しのルールも違うでしょうし、元々生活感の無い人は何でも一緒に捨てちゃったりして。宅配で自分に届いた段ボール箱を開きもせず玄関ホールにボンと置きっぱなしにしたり…教えても教えても覚えた頃には住人が入れ替わるところでしょうから、コシウォン経営もなかなか大変だなとつくづく思ったのでした。

 そんな階段をとぼとぼと上がっていくと、4階あたりの小さな踊り場でよく窓に向かってタバコの煙を吐き出しているその哀愁ある背中を見かけました。同じ所に住んでいる人と知っていたので素通りするのも気が引けて、背中に向かって小さな声で「アンニョンハセヨー」と声をかけると「イェー」といっていつも会釈を返してくれました。振り向くわけでもなく。

 たとえ一言でも隠しきれない私の下手くそ発音と、その場を素通りできない習慣から絶対に外国人、どう見ても日本人とばれているはずなので、変な外国人のおばさんが住んでいるものだと思われていたことでしょう。

 ところでそのタバコのおじさんは、私が授業を終え、ランチを済ませて帰宅する3時ぐらいにたいてい階段にいるのです。普通のサラリーマンじゃなさそうです。早朝勤務? 夜勤に出かける前の一服? 飲食関係なら仕込みはもう始まってる時間だけど…それともやっぱり司法浪人?? ドラマの見過ぎだし本当に大きなお世話なのでこのくらいにしておかないといけませんが、半年ぐらい過ぎたころ階段から姿を消してしまいました。コシウォンの部屋で煙草を吸った人がいたらしく、エレベーターのドアの横の貼り紙が急にうるさくなったので、階段での喫煙も風当たりが強くなったのかもしれません。

おじさんのことを勝手に膨らませた想像と共に思い出しながらキム・エランの「ノックしない家」をもう一度読みたい気分に。状況は違うけれど韓国でコシウォン生活、一人生活を経験した今なら違う気分で作品を味わえるような気がしています。

#コシウォン生活  #ノックしない家  #キム・エラン